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2012-05-05 Sat 17:35
5/3日。
SE7ENのSHOWCASEに行ってきました。 今回私は、昔からの7ペン仲間のmちゃんと、東京公演のみの参戦。 まだ終わっていない会場もあるので、ネタばれになるかと思いますが、 見たくない人はこのままお帰りいただき、ちょと覗いてみたい人は、 下に折りたたんでますのでどーぞ。 |
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2012-04-16 Mon 15:45
2年前の4/16日 とある場所に3人は集まっていました。 そこで3人でのセッションが始まり..何かを感じ、共有し、手ごたえと希望を感じたといいます。 この日が「yellow monsters」の誕生の日。 その日から、彼らは精力的に曲を作り、1枚のアルバムには収まり切らないほどの曲を持ち寄り、アルバム発売に向けて動き出しました。 アルバム発売前は「自信がないから、あんまり期待しないで・・」なんて弱気な事言ってたのに、2枚目のアルバム発売前は「自信がある!」と言い切っていました。 それ程まで、デビューしてから彼らの1年間の活動は、自信のあるものだったのでしょう。 震災があったり、私の個人的な問題があったりで、何度となく渡韓を諦める事になり、結局まだ一度も韓国で彼らのライブを見ていないのですが..。 日本での2度のライブはもちろん観に行きました。 いいライブでした。 素晴らしく! CDで聴くよりもやはりライブだと、心から感じさせてくれるステージパフォーマンスでした。 そして、4/24(火) 年に1枚のペースでリリースしてきた彼らが、3枚目のアルバムを発売します! まだ正式には決まっていないので、詳細は言及できませんが、日本でのアルバム発売とツアーも予定しています。 そんな彼らの、今日という日をお祝いして、2枚目のアルバム「RIOT!」から、4月16日を。 彼らの歴史を想像しながら聴いてもらえると嬉しいです。 yellow monsters 2周年おめでとう! |
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2012-04-12 Thu 17:29
待っていた音楽がまた一つ。 戻ってきてくれました。 Nell 今の時期に聴くじょんわんの声が、一番しっくり来る感じがする。 相変わらずの音空間。 まずはしっとり聴きたい。 あーライブ行きたかったな。 でも今月は飛べそうもないので、いつか聴きに行けたらいいな。 スタンディングではなく、スタンドで、ゆったり腰をおろして あの世界に浸りたい。 余談ですが...。 |
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2012-03-12 Mon 00:15
あの日。
吉祥寺のオフィスにいた私は、異常な揺れに恐怖を感じていた。 今まで感じた事のない激しい横揺れ。 長く、大きな揺れは、産まれてから一度も体験した事のない揺れだった。 東北・宮城県沖が震源地との事で、慌てて兄に電話。 繋がらない。 何度掛けても繋がらない。 岩手の実家に電話。 意外とすぐに通じて、両親と弟の安否を確認。 家の中が足の踏み場もないくらいになってる・・という母の言葉のすぐ後に、余震が来たという恐怖におびえる声に、私から電話を切った。 メールが送れない。 KAKAOとツイッターで友達や知り合いとはやり取りした。 日本の友達とは繋がらないのに、韓国の友達とはKAKAOですぐに連絡が取れた不思議。 会社にTVがない為、すぐにUSTを繋いで、情報収集をする。 そこには、今にも襲い来る、沖合の白い津波が確認された。 この津波は宮城・岩手沿岸部に襲いかかっている。 私は、恐怖と不安で、ボロボロ涙をこぼしながらその様子を見ていた。 もはや仕事なんか何も手につかなかった。 しかし、周りの関東出身の会社の人達は、どこか他人事のように、週末のメルマガ発行や作業にまた日常と同じように仕事をし始めた。 とてつもない違和感だった。 この津波がどんな被害をもたらすか、想像がつかないの? この人達は一体、これから襲い来るだろう大災害を予想できないの? 津波が街を呑み込む映像が流れた。 もはや、これ以上は観る事ができなかった。 兄と連絡が取れない。 兄の住む街は、仙台市宮城野区。 海に面している街だ。 すぐにGoogleで住所と位置関係を調べる。 津波は兄の家まで届くのだろうか? いや、この位置ならきっと届かないだろう。 大丈夫。きっと大丈夫。 でも午後15時頃の津波、その時間には皆家にはいないはず。 甥と姪は学校だろう。 学校なら大丈夫だ。 なら兄と義姉は? 隣町の若林区で、遺体が200体あがったという情報が入る。 本当?デマ?わからない。 不安は募る。 都内も電車が止まり始め、被害の大きさをやっと社内の人間が認識し始めた。 チャリ通の新人は真っ先に帰した。 社長は奥さんが車で迎えに来てくれるという。 妊婦の取締役も、親戚が車で迎えに来てくれるそうだ。 私と同僚は、電車が動く気配もない為、その日は会社に泊まる覚悟をし、近所のコンビニに食料を買いに行った。 懐中電灯はすでに品切れになっていた。 食料は意外にもまだ残っていた。 駅から少し離れていたせいで、住宅街という事もあり、食料まで買う人がまだいなかった。 それでもこの頃すでに、徒歩で歩いて帰る人がたくさんいた。 ほとんどが三鷹方向に歩いて行く。 コンビニから戻ると、妊婦を残して社長が帰宅していた。 迎えに来たからなんだろうが、妊婦1人残して、社員に最後に何も言わないで帰るなんて信じられない! たかがコンビニに買い物に行ったその時間。 その数分をなぜ待てないのか。 社長ともあろう人が。 会社に泊まるつもりでいたのだが、22時をまわった頃だったか、地下鉄が動き出した。 やっぱり帰りたい。丸ノ内線が動き出したというので、吉祥寺から2駅、同僚と歩く事にした。 妊婦の迎えも近くまで来てるというので、駅まで一緒に。 吉祥寺の駅前は人であふれかえっていた。 その後、TVのニュースでも見たが、タクシー乗り場、バス乗り場、公衆電話・・どこも人の列で、どこが最後尾なのかもわからなかった。 人々がみな、三鷹方面に向かって歩いているのと逆方向に歩いて行く私と同僚。 途中で地図を見たり、電車の情報を確認したり、twitterを確認しながら歩く。 途中、タクシーに遭遇したので手をあげたら、犬を追い払うかのように「しっしっ!!」と手であしらわれた。 こんな時に?! 1時間かけて、やっと荻窪についた。 ここまでの1時間も、独りじゃない事に感謝した。 同僚がいてくれただけで本当に心強かった。 丸ノ内線で、どこまで行けるだろうと色々模索していたら、都営新宿線が動き出した。 同僚は都営新宿線沿線なので、どうにか家に帰れる。 良かった! 私は行けるとこまで行って、あとは歩くのを覚悟した。 新婚の同僚が、私の友人でもある旦那に車出してもらうから、家まで送ってあげると言ってくれた。 もちろん断ったが、あの状況下、そう言ってくれた事ががすごくすごく嬉しかった。 地下鉄に乗ってる最中、友達のツイで東西線が動き出した事を知る。 果たしてどこまで? 自宅の最寄り駅までは動いているのか? どうやら全線動いてるらしい! これで帰れるメドがついた。 乗換で同僚と別れた。 私も大手町で東西線に乗換え、ラッキーにもそんなに混んでいなくて座る事もできた。 後は、そのまま最寄り駅まで帰れる・・。 同僚からKAKAOが。 都営新宿線の、友人の自宅方面行きが動いていないという。 駅も入場規制され入れない模様。 何回かKAKAOでやり取りし、旦那と合流出来たというので取り敢えずほっとする。 一緒に東西線で帰ってくれば良かった・・。 私の最寄駅からなら、歩いてもそんなにではなかったのに。 深夜1時過ぎ、ようやく自宅に帰って来た。 自宅は驚くほど何も被害はなかった。 朝家を出たときと変わらない室内。 神棚から御札が落ちていただけにとどまっていた。 揺れの方向が良かったのか食器棚も無事。 テレビでは地震と津波の様子が放送され、さらに恐怖で身が縮みあがった。 12日。 家の前の大通りは異様な光景だった。 JRが動かず帰れなかった帰宅難民たちが、一様に東西線の駅目指して歩いていた。 食料がなくなる事を予感していた私は、コンビニでひとまず水と食料を買い、ドラッグストアでお米・トイレットペーパー・ティッシュ・カップ麺を購入した。 この時まだ、「買占め」や「品不足」に陥るとは考えてもいなかった。 結局同僚は、朝7時くらいに自宅についたようだ。 西東京から千葉の手前まで。 長い一日だったと思う。 私も、東西線が動いていなかったらどうなっていただろう。 雨風に弱くていつも動かなくなる東西線だが、意外にも地震には強かった。 兄に連絡する。 一日中、岩手の実家と、仙台の兄に連絡し続ける。 実家は途中で連絡が取れなくなった。 東京に住むおじに電話し、やはり兄家族の安否だけが確認されてないという。 気仙沼が燃えていた。 私が生まれた街だった。 記憶にはないけれど、私の母子手帳には「出生地・気仙沼」と記されている。 大船渡が。 陸前高田が。 釜石が。 石巻が。 私の知るあの街が、違う街になっていた。 そこには、子供の頃記憶していた風景はどこにもなかった。 みんな流され、何もかも無くなっていた。 実家のある一関は、内陸の為津波の被害はなかった。 それでも、地元とも言える岩手の各地が壊滅状態になっていた。 泣いた。 一日中泣いた。 「奇跡の一本松」で有名になった、あの高田松原の海岸は、子供の頃毎年家族で行っていた海水浴場だった。 駐車場から、あの松林を抜けると、キラキラ光る海が目の前に広がっていた。 その海水浴場が、今はもうない。 あの松林もない。 7万本と言われた松の木は、あのたった1本だけが生き残った。 13日。 時々実家と連絡が取れるようになる。 不安定で、やはり繋がらない時もある。 兄が心配。 不安で泣きながら祈る。 14日。 会社から休みの連絡が入る。 そしてやっと兄の携帯が繋がった! 家族4人皆無事だそうだ。 電気もガスも水も使えず、今まで家の中でキャンプ道具を使って生活していたようだ。 アウトドア用品を扱うスポーツ店で働く兄は、ライフラインが寸断されて不自由している人達の為に、自分も被災しながら店をオープンさせ、商品を提供していたそうだ。 店内の商品は、あっというまに完売し、連絡が取れた日には、もう何も売るものがなかったそうだ。 その後、兄の会社の東京本社の社長が自分でトラックを運転し、東北で被災した社員とその家族の為に、食料・日用品・ガソリンなどを運んでくれたそうだ。 そのお陰で兄家族は何とか食べる事が出来てると言っていた。 私も家族として、兄の社長に心から感謝した。 何も出来ないだけに、本当に感謝した。 会社のトップにいる人間とは、こういう人であるべきだと思った。 だからあの会社は、国内でも誰もが知る有名なスポーツ店になったのだろう。 岩手の実家は、周りに親戚がたくさんいるからきっと助け合ってなんとか大丈夫だろう。 ただし、4年前に「岩手宮城内陸地震」を経験したばかりだったので、地震の恐怖は計り知れないだろう。 おばあちゃんが心配になった。 ガソリンが買えなくなっていた。 なぜか都内でも長者の列。 岩手の実家では、電気もガスも止まっていたので暖が取れず、寒くてたまらなくて、車で家族みんなで暖を取っていたようだ。 3台ある車を順番に使って。 それでもガソリンは底をついた。 寒さに耐えられなくなった父は、小さな暖炉を買ってきたと言っていた。 特に乗りもしない、乗らなくてもなんとかなる東京の人達に言いたかった。 東北では、ガソリンも命に関わる大切な物資なんだと。 必要な人も当然いただろうが、果たしてそれはあの行列に並ぶ全ての人なんだろうかと。 病気の親を病院に連れて行くための、ガソリンがないと言っていた都内の友達もいた。 ガソリンだけではなく、水・食料・乾電池・トイレットペーパー・・みんなあの時は、狂っていた。 私はそんな人々の姿が恐ろしかった。 被災地では、少ない支援物資を食料を、助け合って分け合っているのに、なんて情けない姿なんだろうと思った。 徐々に、各地の被災地の様子が報道されるようになった。 友人から、何度も大丈夫?というメールが来て、そこで初めて自分の自宅周辺も被災している事を知る。 私の家の周りは、本当に何の被害もなかった。 道路も。風景も、いつもと変わらないものがあった。 ライフラインも全て無事だった。 だが、ほんの少し先は、液状化で道路も建物も被害が大きかった。 兄の事で頭がいっぱいで、本当に何もわからなかった。 そして、コンビニやスーパーには食べ物や水が消え、節電の為の電気が消えた。 海側の地区では、液状化の被害の為まだ下水道が復旧しない。 ほどなくしてコンビにに「一人2本まで」の水が陳列され始めたが、私は常に1本しか買うことが出来なかった。 海側の人達が、東京寄りのスーパーやコンビニをまわって、水を買っていた事を知っていた。 その人達に、少しでも水がまわればいいと思った。 友人夫婦がお風呂に入りに来た。 帰りに、タンクいっぱいにお水を汲んで持ち帰ってもらった。 ガソリンがなかったから、車では来れなかった友人。 道が復旧してなかったので、バスもタクシーも走っていなかった。 北海道から届いた支援物資を分けたり、家にあったガスボンベや、食料を分け、大量の水を汲み、 チャリとリュックに積んで、友人夫婦は帰宅した。 「水道代」という友人に「今度、落ち着いたら遊びに行くから、その時に豪華な夕飯ご馳走して」と伝えた。 半分泣いていた友人。 日常生活が、日常ではなくなった。 もう、震災から何日目の事かは覚えていない。 とにかく水がなかった。 元々水道水が飲めない私は、常にペットボトルの水を用意していた為、なんとかなった。 原発の問題もあったので、水道水を数本ペットボトルに入れておいた。 冷蔵庫にはひとまず、野菜も食べれる物もなんでもあった。 買占めに走る事は結局一度もなかった。 兄から、毎日仕事帰りにチャリで遠くまで行き、何か食べるものはないかと探す毎日だと聞かされた。 やっと仙台に荷物が送れるようになった頃、お米や食料品、生活に困るものや子供たちのお菓子など、箱いっぱいに送ってあげた。 こんな事くらいしかできなかった。 北海道に住む友達から、支援物資が届いた。 本当に本当に嬉しかった。 同じ友達からその後、納豆が大量に届いた。 地震と原発の影響で、都内から納豆が消えたからだ。 それをちょっとツイッターでつぶやいたら、内緒で送ってくれた。 涙が出た。 1回でもありがたいのに、2度も! ライフラインが遮断され、未だ電気がつかない友達が、懐中電灯がないと困っているという話をしたところ、都内に住む友達が関西方面の友達が送ってくれたからと、分けてくれた。 それを受け取る為に震災以来、初めて仕事以外で外に出た。 いつもとは違う、まだ日の高い時間に日本橋で友人と会った。 お互いハグして、そして少し涙が出た。 友達の友達の友達からという形で渡された1本の懐中電灯に、友人も感謝していた。 北海道に住むソテジマニアさんから連絡があった。 何か、できる事があったら言って欲しいと。 北海道のマニアが助けるからと。 すごく嬉しかった。 その気持ちが本当に嬉しかった。 同じように、西に住むマニアさんからも、いつでも助けるからとメールが届いた。 嬉しかった。 会った事がない人に、心で救われた。 地震の被害よりも、原発の問題が大きくなってきた頃、周りの韓国人の友達は気がつけばみんな帰国してしまった。 色んな事を言う人がいるが、母国で家族がどれだけ心配しているか、頼る人が少ない異国の地で、慣れない地震の恐怖におびえているのがどれだけ不安か。 それを考えたら、私は友達みんなに帰る事を勧めたくらいだった。 程なくして、計画停電が始まる。 まだライフラインがまともではない地区も、停電を余儀なくされた。 なぜ?23区は停電なしで、被災したこの街の、水道が通っていない地区から電気まで奪うのか? 疑問だったし、腹立たしかった。 私は2時間でも3時間でも停電するから、水道が通らない地区くらい、なぜ免除してもらえないのか。 原発の恐怖は続く。 簡単に言えることではない事はわかっているが、私は原発には反対だ。 東電のやり方にも腹が立つ。 でも、そこで働いている人は、みな危険をおかしてまでも頑張っている。 東電と一区切りにされたら可哀想だ。 腹が立つのは上の人間で、下の人間は命の危険にさらされながら作業しているのだから。 -------------------------- あれから一年。 私は当時の会社を辞めた。 私にとっての2011年も、ツライ年であった事は間違いない。 でも、どれだけちっぽけなツラさだったろうかと、今は思う。 14:46分。 家族で黙祷をした。 涙が流れた。 一日中報道している震災の映像や報道に、胸をえぐられ、涙ばかりが流れる一日だった。 気分を変えようと、音楽を聴いたり、楽しい話題をツイッターに書いてみたりもしたが、やっぱり涙は止まらなかった。 私の家族は皆無事だった。 今年のお正月に地元であった同窓会では、被害に遭って亡くなった人は誰もいなかったと聞いた。 気仙沼や陸前高田に住む同級生もいたのに、皆無事だったと聞いた。 色んな事に感謝した。 私の知ってる人は、奇跡的に誰も犠牲になった人がいなかった。 それでも、やっぱり心がえぐられるようにツライ。イタイ。 大切な人を・土地を・家を、失くした人達はどれだけツライ一年だったろうと思う。 言葉にするのはあまりにも小さすぎるし、どう表せばいいかわからないが、東北の人みんなが少しでも幸せを感じられる事を心から願う。 被災地ではなく「復興地」と呼びたいと誰かが言った。 私もそう思う。 復興までには気が遠くなる程先が見えない道のりだけれど、進まなければゴールはないのだから。 被災地はまだまだがれきの山で、復興なんて言葉が大きすぎて聞えるほど、先が見えない状態。 人々の心も未だ平穏は取り戻せず、15000人を超える犠牲者に加え、3000人を超える人が今も尚、行方不明。 私が毎日を笑って過ごしている時に、1年経っても心から笑う事のできない人もいる。 私の力はとてつもなく小さなものだけれど、小さな力でも何もしないよりはいい。 あの日を忘れず、東北の人達を忘れず、私は私なりに、復興の手伝いを小さくも長く続けて行きたい。 日本は大震災で歴史にない犠牲を負ったが、私は被災者ではないのだから。 復興を助けなければならない。 PRAY FOR JAPAN PRAY FOR TOHOKU 助けてくれた世界中の人達に感謝し、311を忘れる事無く、色んな事に感謝しながら自分らしく生きて行きたい。 |
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また思い出したー。そしてまた泣くかと思った;;;
私もmariちゃんのレポ読んで思い出したとこあるー。
DVDにしてくれないかな。でも私の目線じゃないからnaoLove Again...。ただいまぁ~♪
現実にどっぷり漬かって、やっと戻ってきましたw
時間無いからあと2曲ねーって言ったとき
結構しばらくホントかなと思いましたね~^^;
ハイタッチmariあれから1年。>ひじりさん
本当に震災の時に、どれだけひじりさんに感謝したか。そして、ブログで出会って、実際に何度か会って、離れていても「合う」人とは、ずっと心で繋がっているnaoあれから1年。>あやちゃん
震災で、人とのつながりをすごく感じたよね。こういう時、真剣に被災した人を想える人、想ってるつもりな人。さすがに無関心な人はいないだろうけど、まったnaoあれから1年。あの日、仕事で丁度、仙台の人と電話で話しをしていたあの時間・・
地震・・ってお互いが声を出し大丈夫ですか?といいながらも用件を終えて電話を切った後・・テレビの地ひじり